物我一体「知魚楽」~山水に暮らす意味

「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。

魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。

私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。

詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。

つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。

それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。

荘子「胡蝶の夢」は物我一体の境地

「昔、荘子は夢に胡蝶となり、
花上で自由に楽しく飛び回っていた。
が、目覚めると紛れもなく
またもとの荘子である。
しかし、荘子が夢に胡蝶となったのか、
胡蝶が夢に荘子となったのか・・・」

「胡蝶の夢」は、
荘子「斉物論」に基づく故事で、
無為自然の自由な境地を表しています。
自分と物との区別のつかない
物我一体の境地。

「斉物論」とは、
是と非、生と死、善と悪、虚と実等の
現実に相対しているかに見えるものは
絶対的なものではない、
万物は全て等しい、という考え方。
荘子は、これらの相対は
人間の「知」が生み出した結果であり、
ただの見せかけに過ぎないといいます。

夢と現実(胡蝶と荘子)との区別は
絶対的なものではない・・・

夢が本物でないって確信できますか?
今が本物って確信できますか?
今に囚われてはいけません。
今の現実が夢なのかもしれません。
夢も今も真実。