中国の隠遁は仕官を意識して行われたもの

中国の隠遁思想は
老荘思想と密接に関係があります。
私が老荘思想に惹かれた理由でもあります。

もともとの中国の隠遁は、
仕官を意識してのものだったとのこと。
以下、小尾郊一著「中国の隠遁思想」から。

君子の正しい道を全うするためには
隠遁しなければならない。
隠遁しなければ
自分の志を曲げなければならない。
するとわが身は窮することになる。
隠遁すべきときには隠遁することが
君子たるものの採るべき道である。

ここで隠遁しなければならないときとは、
自分の考えや行為が全うできないとき、
つまり世の中の考えと会わないとき。

中国での隠遁は、自分の主義主張を
とおすためのものであり、
わが身に降りかかる危険を避けて
生命の安全を保守するためのもの。

隠者とは「隠」のみに重きをおき、
「仕」を拒否してはいるものの
それを常に心の奥に意識しつつ、
それから脱却しようと心掛けている人々。

「隠遁」が絶えず
「仕官」を意識しつつ行われることは、
中国の伝統であり、
中国の隠遁思想の特色だったそうです。

単に社会を嫌悪してそこから逃避したり、
人生の無常を感じて
神仏の世界に入るような隠遁、
世捨て人のような隠遁は、
中国的隠遁ではないとのこと。

しかし隠遁の生活は貧しく、
苦渋に満ちたものだったようです。
猛獣の危害もあったとか。

その隠者たちの心の支えになっていたのが
老荘の「道を楽しむこと」。
隠者たちは、老子・荘子の思想によって
おおいに勇気づけられたそうです。

「仕」は意識していないし
少し形は違いますが、
おそらく良寛もそのひとり。
心の支えって、
あるとありがたいものですよね。
本当に心強い。

老荘の道に暮らす ~隠遁者の心のよりどころ

「老子」では、
宇宙根元の絶対の「道」を唱えています。

人々は知巧を捨て、無為自然、
無欲に徹することが必要であり、
そのときはじめて
「道」を会得できるといいます。
欲を捨て、人と争わぬことが
大切であると言っています。
この主張に従うのであれば、
道を志す人は皆、「隠」へ向かいます。

真の隠遁者とは、その真情や名前などは
世の中に知られることはなかったが、
その志は青雲の高きをしのぐほどであり、
人を怨むような行動はとらなかった。
~ 真の隠遁者とは「道」を会得した人。

「荘子」のいう生き方は、
草木の生えている岸辺や
人気のないところに住んで、
魚釣りを楽しむ生き方。
仕官など念頭になく、
「無為」に徹する生活。

山林や丘山の美しい風景は、
そこに住む人々を楽しませます。
そこは、世の煩わしさを避け、
静かに自由な生活が送れるところ。

仕官を離れた隠遁者の生活は
かなり厳しいものでしたが、
「荘子」のこうした自然観が、
自分たちは、あこがれの老荘の道の
世界に暮らしているのだと、
隠遁者の心のよりどころと
なったそうです。

老荘の思想により、
「山水」はもはや
苦難を伴う「山水」ではなく、
仁者、知者が楽しむべき「山水」であると
考えられるようになりました。

「山水に遊ぶ」ことの最も大きな理由は、
老荘の道を会得するため。
「山水」は、老荘の主張する
「自然」のままである場所であり、
そこには「道」が存在すると
考えられていました。

束縛されずに自由に生きるために「荘子」

「荘子」とは、
紀元前4~3世紀頃の中国の
実在の道家の思想家 荘周のこと、
あるいはその著作のことをいいます。

荘周は、広い学識の故に
仕官を求められたにもかかわらず、
束縛を嫌い、自由の境涯を求め、
仕えることはなかったといいます。
名利を超え、孤貧に徹する生活を実践し、
その果てに、死の怖れから脱却し、
死は生存の苦からの解放と認識します。

著作は道家の説話や寓話を編集した書物で、
知の限界、胡蝶の夢(虚と実の世界の転換)
相対的な見聞の認識と絶対知のちがい
など、かなり豊富な内容が記されています。

「荘子」も「老子」も、
万物の根源を「道」としており、
「道」は無為自然。

「道」を実践すれば、
人間社会の束縛から解放された
絶対的な精神の自由や、
自然と一体になった魂の安らぎが得られる。

もちろん、「道」を実践するためには
覚悟が必要。

束縛されずに自由に生きるということは、
孤独や貧しさを友として
暮らしていくということ。
そうして、そんな暮らしを、
自分自身で選んで、
味わって楽しんで満足して暮らしていく。
それが隠遁生活の本質でしょうか。

物我一体「知魚楽」~山水に暮らす意味

「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。

魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。

私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。

詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。

つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。

それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。

荘子「胡蝶の夢」は物我一体の境地

「昔、荘子は夢に胡蝶となり、
花上で自由に楽しく飛び回っていた。
が、目覚めると紛れもなく
またもとの荘子である。
しかし、荘子が夢に胡蝶となったのか、
胡蝶が夢に荘子となったのか・・・」

「胡蝶の夢」は、
荘子「斉物論」に基づく故事で、
無為自然の自由な境地を表しています。
自分と物との区別のつかない
物我一体の境地。

「斉物論」とは、
是と非、生と死、善と悪、虚と実等の
現実に相対しているかに見えるものは
絶対的なものではない、
万物は全て等しい、という考え方。
荘子は、これらの相対は
人間の「知」が生み出した結果であり、
ただの見せかけに過ぎないといいます。

夢と現実(胡蝶と荘子)との区別は
絶対的なものではない・・・

夢が本物でないって確信できますか?
今が本物って確信できますか?
今に囚われてはいけません。
今の現実が夢なのかもしれません。
夢も今も真実。