「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。
魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。
私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。
詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。
つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。
それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。