荘子「胡蝶の夢」は物我一体の境地

「昔、荘子は夢に胡蝶となり、
花上で自由に楽しく飛び回っていた。
が、目覚めると紛れもなく
またもとの荘子である。
しかし、荘子が夢に胡蝶となったのか、
胡蝶が夢に荘子となったのか・・・」

「胡蝶の夢」は、
荘子「斉物論」に基づく故事で、
無為自然の自由な境地を表しています。
自分と物との区別のつかない
物我一体の境地。

「斉物論」とは、
是と非、生と死、善と悪、虚と実等の
現実に相対しているかに見えるものは
絶対的なものではない、
万物は全て等しい、という考え方。
荘子は、これらの相対は
人間の「知」が生み出した結果であり、
ただの見せかけに過ぎないといいます。

夢と現実(胡蝶と荘子)との区別は
絶対的なものではない・・・

夢が本物でないって確信できますか?
今が本物って確信できますか?
今に囚われてはいけません。
今の現実が夢なのかもしれません。
夢も今も真実。

老子「そこに居すわらない」

さまざまな事物があらわれても
それについてとかくの説明をせず、
ものを生み出しても
それを自分のものとはせず、
ものを働かせても
それを頼りとはせず、
成果があがっても
そこには居すわらない。
そもそもそこに居すわらないからこそ
またそこから離れることもないのである。

昔読んだ本から書き写したメモ。
「老子」から。

なにものにもとらわれないということは
自分が強くなければできません。
言い訳したり、
物事に執着したり、
結果を気にしたり、
そんなことではいけません。
自分は強いんだということさえ
意識していてはダメです。

なにものにもとわられずに
自己の道をすすむ。

凛として自然体でいながら
それができたら 凄いですね。

老子「大道廃れて仁義あり」

老子の「大道廃有仁義」

大道(たいどう)廃れて、仁義有り。
智慧(ちえ)出でて、大偽有り。
六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。
国家昏乱して、忠臣有り。

<訳>
大いなる道(無為自然)が廃れたので、
仁義(人為的な道徳)の概念が生まれた。
知恵を持った者(儒者)が現れたので、
人的な秩序や制度が生まれた。
親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、
孝行者が目立つようになる。
国家が乱れてくると、
忠臣の存在が目立つようになる。

仁義や慈愛、忠義や孝行といったものは、
わざわざ他人から押し付けられなくても
自分の中から
自然に湧き上がってくるはず。
わざわざ強調しなければいけないのは、
本来、人の心に備わっているはずの
「道」がなくなってしまった証拠。
この生き方が廃れてしまったからこそ
人為的な仁義や慈愛、忠義や孝行が
説かれるようになってしまった。

老子の思想は「無為自然」。
あるがままにまかせることが理想。

老子は道が失われつつある世の中を
嘆いていたにちがいありません。

制度ができ、秩序が作られ、
道徳が説かれ、
人の世は堅苦しく、
窮屈になってしまいました。

法律・規則・道徳を意識しなくても
穏やかに暮らしていけたら、
それこそ理想ですね。

でも悲しいかな、
それがないと、
民衆はどこに向かってよいのか
分からなくなってしまうもの。

集団のなかで生きていく限り、
無為自然を実践するのは難しい。
だからこそ、
街を離れ、山の中にこもる。
道を実践する隠遁者が
山水に遊ぶ理由でもあります。

争うことができるものがいない

そもそも彼は自分を立てて
人と争うことをしない。
だから世界中に
彼と争うことのできるものが
いないのだ。

これも昔読んだ本からの抜粋メモ。
たぶん老子。

争うことができるものがいない
ということは、
彼が一番ということではありません。

相手にされないとか、
そういうことでもありません。

それとは全く違う概念。
そういうものを超越した
ところにいるということ。

こういう考え方が好きです。
狭い枠の中にはおさまらない考え方。

風を御する仙人は「道」の体現者

仙人は、霞を食べ、露を飲んで生きている。
仙人は、風を御すのに忙しくて、
俗世のチマチマしたことなんかに
かかわってはいられない。

なんだか私は、こんな仙人像に惹かれます。

本来「仙人」とは、中国の道教において、
仙境にて暮らし、仙術をあやつり、
不老不死を得た人。
道教の不滅の真理である「道」を
体現した人です。

仙人の住む仙境とは、人里離れた秘境。
主に高い山の上や天上などの、
俗界を離れた静かで清浄な場所。

芥川龍之介の「杜子春」を思い出します。
幸せは、お金ではない、
俗世を離れた仙人になることでもない、
人間らしい暮らしにこそある、
というような内容ですが、
実はこの話には中国にもとの話があって、
それを芥川龍之介が
児童向けの小説に創り替えたそうです。

芥川の「杜子春」では、
どんなことがあっても声を出さないようにと
去っていた仙人の言いつけを破って、
親が地獄の責め苦を受ける場面で、
「お母さん!」と
杜子春は声をあげてしまいました。
しかし、仙人は、
「あの時もし声を出さなかったら、
お前を殺していた」と、
声を出した杜子春を肯定し、
人間らしい暮らしをしたいという杜子春に、
泰山の麓にある一軒の家と畑を
与えています。

それに対し、もとの中国の話では、
場面設定は違えども、人間だったら
声をあげずにはいられない場面で
同じく声をあげてしまった杜子春に対し、
仙人は「声を出さなかったら
仙人になれたのに」と言って、
仙人になりたかった杜子春を突き放した
とのこと。

芥川の小説では、
人間の幸せを説いた話になっていますが、
中国のもとの話は、「仙人とは」
という話だったんだと思います。

仙人とは、そういうものなんでしょうね。
人の情や毎日の生活のことなんて、
仙人にとっては小さい小さい。
そんな俗世のことには
かかわってはいられない。
それが仙人なんでしょう。
私たち人間に、
そうそう辿り着ける境地ではありません。
それに、仙人のような境地になることが
幸せなのか、それもわかりません。
仙人には幸せという概念も
ないんでしょうね。

でも、霞を食べて
生きていけたらなんていいでしょう。
風を御すなんて、なんて素敵でしょう。