風を御する仙人は「道」の体現者

仙人は、霞を食べ、露を飲んで生きている。
仙人は、風を御すのに忙しくて、
俗世のチマチマしたことなんかに
かかわってはいられない。

なんだか私は、こんな仙人像に惹かれます。

本来「仙人」とは、中国の道教において、
仙境にて暮らし、仙術をあやつり、
不老不死を得た人。
道教の不滅の真理である「道」を
体現した人です。

仙人の住む仙境とは、人里離れた秘境。
主に高い山の上や天上などの、
俗界を離れた静かで清浄な場所。

芥川龍之介の「杜子春」を思い出します。
幸せは、お金ではない、
俗世を離れた仙人になることでもない、
人間らしい暮らしにこそある、
というような内容ですが、
実はこの話には中国にもとの話があって、
それを芥川龍之介が
児童向けの小説に創り替えたそうです。

芥川の「杜子春」では、
どんなことがあっても声を出さないようにと
去っていた仙人の言いつけを破って、
親が地獄の責め苦を受ける場面で、
「お母さん!」と
杜子春は声をあげてしまいました。
しかし、仙人は、
「あの時もし声を出さなかったら、
お前を殺していた」と、
声を出した杜子春を肯定し、
人間らしい暮らしをしたいという杜子春に、
泰山の麓にある一軒の家と畑を
与えています。

それに対し、もとの中国の話では、
場面設定は違えども、人間だったら
声をあげずにはいられない場面で
同じく声をあげてしまった杜子春に対し、
仙人は「声を出さなかったら
仙人になれたのに」と言って、
仙人になりたかった杜子春を突き放した
とのこと。

芥川の小説では、
人間の幸せを説いた話になっていますが、
中国のもとの話は、「仙人とは」
という話だったんだと思います。

仙人とは、そういうものなんでしょうね。
人の情や毎日の生活のことなんて、
仙人にとっては小さい小さい。
そんな俗世のことには
かかわってはいられない。
それが仙人なんでしょう。
私たち人間に、
そうそう辿り着ける境地ではありません。
それに、仙人のような境地になることが
幸せなのか、それもわかりません。
仙人には幸せという概念も
ないんでしょうね。

でも、霞を食べて
生きていけたらなんていいでしょう。
風を御すなんて、なんて素敵でしょう。

芥川龍之介 ~日常の瑣事を愛さなければならない

芥川龍之介のことば

「人生を幸福にするためには、
 日常の瑣事(さじ)を
 愛さなければならぬ。」

瑣事とは、些細な日常のこと。

ホントにそうですよね。
人生において、大きな幸せなんて
そうそうあるものではありません。

芥川龍之介のことばであるがゆえに、
なおさら意味深く感じますが、
実はこのことば、そのあとには、
もっともっと意味深な文章が続き、
全体の意味するところは、
もっともっと奥深くなっています。

「瑣事を愛するものは
 瑣事の為に苦しまなければならぬ。」
何事にも相反する側面があり、
その側面にも積極的に
関わりあっていかなければならない、
ということでしょうか。

でも、それは置いておいて、
私には、冒頭のことばだけで十分。
幸福とはどういものか。
人生とはどういうものか。
考えさせられます。