物我一体「知魚楽」~山水に暮らす意味

「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。

魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。

私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。

詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。

つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。

それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。

山水への美意識の芽生え

老荘思想を背景にもつ隠遁思想が広がり、
人々は山水に隠遁、
あるいは それに憧れました。
その結果、山水にこそ「真」があり、
山水には「美」があると、
認識されることになりました。

すなわち、中国の美意識は、
隠遁の生活から得られ、
老荘思想の影響を大きく受けました。
これは五世紀頃のこと。
この自然観が、以降の中国にも
伝統として伝わっていきます。

一方、ヨーロッパでは、
キリスト教の影響から、
人間を 自然より上位なもの
とみなしていました。
ヨーロッパにももちろん
美しい山河はありましたが、
自然を美の対象とみたのは、
18世紀フランスの
ジャン・ジャック・ルソー
「自然に帰れ」。

日本は7~8世紀 万葉の歌人たちが、
自然の美しさと一体となって
それを表現しています。
この精神は以後も変わることなく
受け継がれていきました。
中国文学の影響もあったかもしれませんが、
なにより日本の美しい山河が、
日本人の感受性を
刺激したのかもしれません。

山水を美しいと感じる心・・・
国によって歴史もやはり違うんですね。

自然豊かな日本に生まれてきてよかった。
隠遁しなくても、自然が身近にあり、
隠者でなくても、美しさを感じる
ことができるのですから。

とはいえ 煩わしい世俗と離れて
自然の中で暮らす隠遁生活には憧れます。

日本人は昔から老荘思想が好き

「荘老思想は我が好むところ
(荘老我所好)」
奈良時代の頃の
現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」に
載っている言葉です。

この頃にはすでに日本に
老荘の考え方は届いていました。
自然を愛する日本人の心に
老荘思想が受け入れられるのは
容易だったんじゃないでしょうか。

老荘は、虚無、厭世、それでいて楽天。
仏教のような無常観はありません。
あくまで現実の自然を大切にします。
花鳥風月を楽しむことを重要とします。

老荘思想は時の政権と
結びついたりすることもなく、
死後の儀式や宗教とも無縁です。
勤勉を欠くもの、
隠遁を奨励するものとして、
国策上危険とみなされたのも
理解できます。

老荘思想が発展していって
吉凶、陰陽道(おんみょうどう)の方向へ
展開していってしまうと、
私にもちょっと受け入れがたいのですが、
老荘本来の根幹の考え方には
素晴らしいものがあります。

「道」は不滅です。
老荘を意識していなくても
自然に同じ方向に向かっていく人、
たくさんいるんじゃないでしょうか。
美しい自然の中でゆっくり生きることは、
いつの時代にも ひとつの憧れです。

老荘思想は危険か?

老荘思想の中心は道であり、無為自然。
そんな考え方が好きです。

でも、以前、老荘思想が好きだって
人に伝えたとき、
やめた方がいいって、
危険思想のような言われ方を
したことがありました。

確かに、老荘思想は神仙思想とも言われ、
不老長生、超自然や怪奇など、
陰陽道(おんみょうどう)へもつながる
うさんくさい側面があることも事実です。
徹底した平和主義であり、
権威や暴力を嫌う人生哲学であるがゆえ、
ともすれば、勤勉を欠くもの、
隠遁を奨励するものとして、
国策上 危険、邪道とみなされていた
ことも事実でした。

時代の変遷とともに変わってしまう
人の道を説く儒教とは違って、
老荘思想は、宇宙や自然の理法、
永遠不変の道を説いています。
吉田兼好、良寛、夏目漱石なども、
みんな老荘の影響を受けています。
それほど根本的な考え方です。

老荘思想のすべてを
語れるほどの知識はありませんが、
老荘思想には、
生きるのが楽になるような
考え方の部分がいっぱいあります。
私も大いに勇気づけられました。

夏目漱石の向かった先 ~死か、狂気か、宗教か

だいぶ昔、高校の現代国語の授業で
夏目漱石の作品を扱ったとき、
先生が言いました。
「生きることを真剣に考えると、
行きつく先は、死か、狂気か、宗教か、
しかない。」

そのとき、それを聞いて、
本当にそのとおりだと思いました。
すごく印象に残ってます。
そして今でもそのとおりだと
思っています。

今、改めて調べてみると、
夏目漱石『行人』の一文に、
「死ぬか、気が違うか、
それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの三つのものしかない。」
と書かれていることが分かりました。

あくまで「生に真剣に向き合ったら」
ということで、
私は、これまで怖くて、まだ一度も
生きることに、真剣に向き合えていません。

真剣に考えたら、
自殺するしかなくなるか、
発狂するに至るか、
生きるために宗教に走るか・・・
そのとおりだと思いつつ、
目をそらして暮らしています。

でももちろん作家である漱石は違います。
生を、作品を通して突き詰めていきます。

漱石は、自殺はできず、
狂気にもなりきれず。
晩年は禅宗に傾倒していったようです。

「則天去私(そくてんきょし)」は、
漱石が最晩年理想とした心境。
我執を捨て去り、
諦観にも似た調和的な世界に身をまかせる
こと、と解釈されています。

私はこれを、
道教の「無為自然」に通じるものだと
思っています。
「天に任せる」
やはり良寛にも近いものを感じました。