争うことができるものがいない

そもそも彼は自分を立てて
人と争うことをしない。
だから世界中に
彼と争うことのできるものが
いないのだ。

これも昔読んだ本からの抜粋メモ。
たぶん老子。

争うことができるものがいない
ということは、
彼が一番ということではありません。

相手にされないとか、
そういうことでもありません。

それとは全く違う概念。
そういうものを超越した
ところにいるということ。

こういう考え方が好きです。
狭い枠の中にはおさまらない考え方。

老子「大道廃れて仁義あり」

老子の「大道廃有仁義」

大道(たいどう)廃れて、仁義有り。
智慧(ちえ)出でて、大偽有り。
六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。
国家昏乱して、忠臣有り。

<訳>
大いなる道(無為自然)が廃れたので、
仁義(人為的な道徳)の概念が生まれた。
知恵を持った者(儒者)が現れたので、
人的な秩序や制度が生まれた。
親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、
孝行者が目立つようになる。
国家が乱れてくると、
忠臣の存在が目立つようになる。

仁義や慈愛、忠義や孝行といったものは、
わざわざ他人から押し付けられなくても
自分の中から
自然に湧き上がってくるはず。
わざわざ強調しなければいけないのは、
本来、人の心に備わっているはずの
「道」がなくなってしまった証拠。
この生き方が廃れてしまったからこそ
人為的な仁義や慈愛、忠義や孝行が
説かれるようになってしまった。

老子の思想は「無為自然」。
あるがままにまかせることが理想。

老子は道が失われつつある世の中を
嘆いていたにちがいありません。

制度ができ、秩序が作られ、
道徳が説かれ、
人の世は堅苦しく、
窮屈になってしまいました。

法律・規則・道徳を意識しなくても
穏やかに暮らしていけたら、
それこそ理想ですね。

でも悲しいかな、
それがないと、
民衆はどこに向かってよいのか
分からなくなってしまうもの。

集団のなかで生きていく限り、
無為自然を実践するのは難しい。
だからこそ、
街を離れ、山の中にこもる。
道を実践する隠遁者が
山水に遊ぶ理由でもあります。

老子「そこに居すわらない」

さまざまな事物があらわれても
それについてとかくの説明をせず、
ものを生み出しても
それを自分のものとはせず、
ものを働かせても
それを頼りとはせず、
成果があがっても
そこには居すわらない。
そもそもそこに居すわらないからこそ
またそこから離れることもないのである。

昔読んだ本から書き写したメモ。
「老子」から。

なにものにもとらわれないということは
自分が強くなければできません。
言い訳したり、
物事に執着したり、
結果を気にしたり、
そんなことではいけません。
自分は強いんだということさえ
意識していてはダメです。

なにものにもとわられずに
自己の道をすすむ。

凛として自然体でいながら
それができたら 凄いですね。

老荘の道に暮らす ~隠遁者の心のよりどころ

「老子」では、
宇宙根元の絶対の「道」を唱えています。

人々は知巧を捨て、無為自然、
無欲に徹することが必要であり、
そのときはじめて
「道」を会得できるといいます。
欲を捨て、人と争わぬことが
大切であると言っています。
この主張に従うのであれば、
道を志す人は皆、「隠」へ向かいます。

真の隠遁者とは、その真情や名前などは
世の中に知られることはなかったが、
その志は青雲の高きをしのぐほどであり、
人を怨むような行動はとらなかった。
~ 真の隠遁者とは「道」を会得した人。

「荘子」のいう生き方は、
草木の生えている岸辺や
人気のないところに住んで、
魚釣りを楽しむ生き方。
仕官など念頭になく、
「無為」に徹する生活。

山林や丘山の美しい風景は、
そこに住む人々を楽しませます。
そこは、世の煩わしさを避け、
静かに自由な生活が送れるところ。

仕官を離れた隠遁者の生活は
かなり厳しいものでしたが、
「荘子」のこうした自然観が、
自分たちは、あこがれの老荘の道の
世界に暮らしているのだと、
隠遁者の心のよりどころと
なったそうです。

老荘の思想により、
「山水」はもはや
苦難を伴う「山水」ではなく、
仁者、知者が楽しむべき「山水」であると
考えられるようになりました。

「山水に遊ぶ」ことの最も大きな理由は、
老荘の道を会得するため。
「山水」は、老荘の主張する
「自然」のままである場所であり、
そこには「道」が存在すると
考えられていました。