老子「大道廃れて仁義あり」

老子の「大道廃有仁義」

大道(たいどう)廃れて、仁義有り。
智慧(ちえ)出でて、大偽有り。
六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。
国家昏乱して、忠臣有り。

<訳>
大いなる道(無為自然)が廃れたので、
仁義(人為的な道徳)の概念が生まれた。
知恵を持った者(儒者)が現れたので、
人的な秩序や制度が生まれた。
親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、
孝行者が目立つようになる。
国家が乱れてくると、
忠臣の存在が目立つようになる。

仁義や慈愛、忠義や孝行といったものは、
わざわざ他人から押し付けられなくても
自分の中から
自然に湧き上がってくるはず。
わざわざ強調しなければいけないのは、
本来、人の心に備わっているはずの
「道」がなくなってしまった証拠。
この生き方が廃れてしまったからこそ
人為的な仁義や慈愛、忠義や孝行が
説かれるようになってしまった。

老子の思想は「無為自然」。
あるがままにまかせることが理想。

老子は道が失われつつある世の中を
嘆いていたにちがいありません。

制度ができ、秩序が作られ、
道徳が説かれ、
人の世は堅苦しく、
窮屈になってしまいました。

法律・規則・道徳を意識しなくても
穏やかに暮らしていけたら、
それこそ理想ですね。

でも悲しいかな、
それがないと、
民衆はどこに向かってよいのか
分からなくなってしまうもの。

集団のなかで生きていく限り、
無為自然を実践するのは難しい。
だからこそ、
街を離れ、山の中にこもる。
道を実践する隠遁者が
山水に遊ぶ理由でもあります。

物我一体「知魚楽」~山水に暮らす意味

「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。

魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。

私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。

詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。

つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。

それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。

老荘の道に暮らす ~隠遁者の心のよりどころ

「老子」では、
宇宙根元の絶対の「道」を唱えています。

人々は知巧を捨て、無為自然、
無欲に徹することが必要であり、
そのときはじめて
「道」を会得できるといいます。
欲を捨て、人と争わぬことが
大切であると言っています。
この主張に従うのであれば、
道を志す人は皆、「隠」へ向かいます。

真の隠遁者とは、その真情や名前などは
世の中に知られることはなかったが、
その志は青雲の高きをしのぐほどであり、
人を怨むような行動はとらなかった。
~ 真の隠遁者とは「道」を会得した人。

「荘子」のいう生き方は、
草木の生えている岸辺や
人気のないところに住んで、
魚釣りを楽しむ生き方。
仕官など念頭になく、
「無為」に徹する生活。

山林や丘山の美しい風景は、
そこに住む人々を楽しませます。
そこは、世の煩わしさを避け、
静かに自由な生活が送れるところ。

仕官を離れた隠遁者の生活は
かなり厳しいものでしたが、
「荘子」のこうした自然観が、
自分たちは、あこがれの老荘の道の
世界に暮らしているのだと、
隠遁者の心のよりどころと
なったそうです。

老荘の思想により、
「山水」はもはや
苦難を伴う「山水」ではなく、
仁者、知者が楽しむべき「山水」であると
考えられるようになりました。

「山水に遊ぶ」ことの最も大きな理由は、
老荘の道を会得するため。
「山水」は、老荘の主張する
「自然」のままである場所であり、
そこには「道」が存在すると
考えられていました。