芥川龍之介 ~日常の瑣事を愛さなければならない

芥川龍之介のことば

「人生を幸福にするためには、
 日常の瑣事(さじ)を
 愛さなければならぬ。」

瑣事とは、些細な日常のこと。

ホントにそうですよね。
人生において、大きな幸せなんて
そうそうあるものではありません。

芥川龍之介のことばであるがゆえに、
なおさら意味深く感じますが、
実はこのことば、そのあとには、
もっともっと意味深な文章が続き、
全体の意味するところは、
もっともっと奥深くなっています。

「瑣事を愛するものは
 瑣事の為に苦しまなければならぬ。」
何事にも相反する側面があり、
その側面にも積極的に
関わりあっていかなければならない、
ということでしょうか。

でも、それは置いておいて、
私には、冒頭のことばだけで十分。
幸福とはどういものか。
人生とはどういうものか。
考えさせられます。

松尾芭蕉 ~夢は枯野をかけ廻る

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」
(たびにやんで ゆめはかれのを
 かけめぐる)
「奥の細道」で有名な
松尾芭蕉の辞世の句。

<訳>
 旅先で死の床に臥しながら
 夢の中では
 いまだ知らぬ枯野を駆け回っている

病床でも芭蕉の俳句への思いは
とどまりませんでした。
しかしながら、これが芭蕉の、
病床での最終の句となりました。

旅好きの私としては、
この句から伝わってくる
旅への思いに共感を持ちました。
病に臥してもなお、
あきらめきれない旅への思い。
病よりも旅。
病に負けない旅への思い。

あるのは絶望感ではありません。
旅へのあこがれ。
病床にあっても、
こんな気持ちを持ち続けることができたら、
ステキですね。

映画「あん」 ~この世を見るために聞くために

映画「あん」をDVDで見ました。

ハンセン病(らい病)だった徳江の言葉
「私たちは、この世を見るために、
聞くために、生れてきた。
この世はただそれだけを望んでいた。
・・・だとすれば、何かになれなくても、
私たちには生きる意味があるのよ。」

本来は、ハンセン病に対する
過去の悲劇を表現した言葉なのだと思います。
でもごめんなさい。
それは少し横におかせてください。

この言葉を聞いて、
ああ、ただ生きてるだけでいいんだ、
となんだかホッとするような感じを
受けたのは、私だけでしょうか。

この世界はすばらしい。
その世界を見るために、聞くためだけに、
生れてきた。
この世界を見ること、聞くこと、
それが十分生きる意味になる・・・
すてきな言葉だと思いました。

「人の役に立つことが、生きる意味
なんだろうか」との問いから、
この作品が生まれたといいます。

ちょっぴり悲しいけど、
ほっこりするいい作品でした。

<あらすじ>
千太郎(永瀬正敏)は、どら焼き屋の雇われ店長として単調な日々をこなしていた。そこで働くことを懇願する手の不自由な老女の徳江(樹木希林)に、どらやきの粒あん作りを任せることに。徳江の作った粒あんはあまりに美味しく、店は繁盛。しかし、徳江がかつてハンセン病であったとの噂を聞きつけ、客足はピタリと途絶え、それを察した徳江は店を辞めた。千太郎はハンセン病感染者を隔離する施設に徳江を訪ねる。 ・・・

「るろうに剣心」~季節を愛でる

映画『るろうに剣心』は
漫画『るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-』
から実写映画になったもの。

主役の緋村剣心を演じるのは佐藤健。
天涯孤独となった幼い剣心に
剣術を教えたのは、師匠の比古清十郎。
劇中では福山雅治が演じています。

第3作「るろうに剣心 伝説の最期編」で
師匠の比古は、剣心に、
生きる楽しみについて語っています。

「春は夜桜
夏には星
秋には満月
冬には雪

それを愛でるだけで
酒は十分うまい。

それでもまずいなら
それは自分自身の
何かが病んでいる証だ。」

本当にそうだと思いました。

そして第3作エンディング。
激動の戦いがすべて終わった後・・・

剣心は、庭先に落ちた
真っ赤なもみじの葉をひとつ拾って、
薫の手のひらにのせ、
「その葉が一番うつくしい。
こうやって 生きていくでござるよ。」

これからは
日常の小さな幸せを幸せとして、
普通に暮らしていく。
とってもステキだと思いました。

でもそれって、簡単なようで
なかなか難しいものですよね。
特に冒険や刺激的な人生を送ってきた人が
その単調さに耐えられるのか。

でもきっと鍛錬している剣心になら
できるのかもしれません。
幸せを幸せとして感じることができるのも
幸せに生きるための素晴らしい能力ですよね。

<あらすじ>
幕末に「人斬り抜刀斎」として恐れられた伝説の剣客、緋村剣心。明治維新後は「不殺」(ころさず)を誓い、流浪人として全国を旅していた。神谷薫との出会いや、同じ激動の時代を生き抜いた宿敵達との戦いを通じて、贖罪の答えと新たな時代での生き方を模索していく。

しづ心なく花の散るらむ

「ひさかたの ひかりのどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ」
これもご存知、
古今和歌集で紀友則が詠んだ歌。
紀友則は、土佐日記で有名な
紀貫之のいとこだそうです。

<訳>
こんなにも日の光が
のどかに射している春の日に、
なぜ桜の花だけは 落ち着かなげに
散っていってしまうのだろうか

見えるのは、
柔らかな春の日差しの中を、
桜の花びらが散っていく様子。
情景が目に浮かぶ、
とても視覚的で華やかな歌。
散り行く桜への哀愁も感じられます。

桜は、満開もすばらしいですが、
その花吹雪も、すぎゆく季節や
はかなさを感じさせる
とても美しい春の光景です。

「やっと暖かくなってきた
のどかな春の日なのに
桜の花だけはあわただしく
散っていってしまう。
なんでだろうか・・・」

古今和歌集の時代から
日本人が大切に共有してきた
この気持ち。
そんな気持ちを 何百年も昔の人と
共有できてよかった。