日本人は昔から老荘思想が好き

「荘老思想は我が好むところ
(荘老我所好)」
奈良時代の頃の
現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」に
載っている言葉です。

この頃にはすでに日本に
老荘の考え方は届いていました。
自然を愛する日本人の心に
老荘思想が受け入れられるのは
容易だったんじゃないでしょうか。

老荘は、虚無、厭世、それでいて楽天。
仏教のような無常観はありません。
あくまで現実の自然を大切にします。
花鳥風月を楽しむことを重要とします。

老荘思想は時の政権と
結びついたりすることもなく、
死後の儀式や宗教とも無縁です。
勤勉を欠くもの、
隠遁を奨励するものとして、
国策上危険とみなされたのも
理解できます。

老荘思想が発展していって
吉凶、陰陽道(おんみょうどう)の方向へ
展開していってしまうと、
私にもちょっと受け入れがたいのですが、
老荘本来の根幹の考え方には
素晴らしいものがあります。

「道」は不滅です。
老荘を意識していなくても
自然に同じ方向に向かっていく人、
たくさんいるんじゃないでしょうか。
美しい自然の中でゆっくり生きることは、
いつの時代にも ひとつの憧れです。

老荘思想は危険か?

老荘思想の中心は道であり、無為自然。
そんな考え方が好きです。

でも、以前、老荘思想が好きだって
人に伝えたとき、
やめた方がいいって、
危険思想のような言われ方を
したことがありました。

確かに、老荘思想は神仙思想とも言われ、
不老長生、超自然や怪奇など、
陰陽道(おんみょうどう)へもつながる
うさんくさい側面があることも事実です。
徹底した平和主義であり、
権威や暴力を嫌う人生哲学であるがゆえ、
ともすれば、勤勉を欠くもの、
隠遁を奨励するものとして、
国策上 危険、邪道とみなされていた
ことも事実でした。

時代の変遷とともに変わってしまう
人の道を説く儒教とは違って、
老荘思想は、宇宙や自然の理法、
永遠不変の道を説いています。
吉田兼好、良寛、夏目漱石なども、
みんな老荘の影響を受けています。
それほど根本的な考え方です。

老荘思想のすべてを
語れるほどの知識はありませんが、
老荘思想には、
生きるのが楽になるような
考え方の部分がいっぱいあります。
私も大いに勇気づけられました。

酒は人生最高の快楽

「一壜換え得たり春を迎ふるの酒
これを飲みて酣歌(かんか)悠々に付し
人生の快楽此(かく)の如くにして足れり」

亀田鵬斎の「新春酔歌」。
お酒の大好きな 越後の良寛とも
交友があったそうです。
(大星光史「老荘神仙の思想」から)

春をもっとも楽しく迎えるには
一壜の酒があればいい。
酒を飲んで、詩を詠ずれば、
人生の快楽はここに極まる。

一壜の酒があればいい・・
というのがいいですね。
人生の幸せとは、
かくなるものなんでしょうね。

私はお酒は飲めませんが、
飲めたらさぞや楽しいだろうなと
その豊かさを想像します。
「竹林の七賢」も酒を愛したといいます。

こんな内容の歌もあるそうです。

人間酒に酔っているときが一番で、
醒めているときは何の意味もない。
考えてみれば、
物事みな夢のようなものであり、
利巧だ 愚かだ といっても
何を基準にそれがいえるのか。
死後の名声もすぐに消えてしまう。
寿命貧富は天命にまかせて
酒を飲むのがもっともよい。

ちょっと荘子の胡蝶の夢にも
似ていますね。

夏目漱石「とかくこの世は住みにくい」

夏目漱石『草枕』の
冒頭のとても有名な一節。

山路(やまみち)を登りながら、
こう考えた。
智(ち)に働けば角(かど)が立つ。
情に棹(さお)させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかくに人の世は住みにくい。

この一節に、私は隠遁の思想と
同じものを感じました。
しかしながら、漱石は、
山水へと向かうのではなく、
次のくだりへと展開していきます。

住みにくさが高(こう)じると、
安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、
詩が生れて、画(え)が出来る。
・・・
ただの人が作った人の世が
住みにくいからとて、
越す国はあるまい。
・・・
越す事のならぬ世が住みにくければ、
住みにくい所をどれほどか、
寛容(くつろ)げて、
束(つか)の間の命を、
束の間でも住みよくせねばならぬ。
ここに詩人という天職が出来て、
ここに画家という使命が降(くだ)る。
あらゆる芸術の士は
人の世を長閑(のどか)にし、
人の心を豊かにするが故(ゆえ)に
尊(たっ)とい。

中国の隠遁思想のように、
人里離れて山水に住むのは、
あまりに過酷です。
誰にでもできるというものではありません。
良寛は、その道にだいぶ近づいていると
思いますが。
漱石は芸術(文芸といった方がいいで
しょうか)の道を選びました。
漱石も良寛も、
人生に真剣に向き合っています。

夏目漱石の向かった先 ~死か、狂気か、宗教か

だいぶ昔、高校の現代国語の授業で
夏目漱石の作品を扱ったとき、
先生が言いました。
「生きることを真剣に考えると、
行きつく先は、死か、狂気か、宗教か、
しかない。」

そのとき、それを聞いて、
本当にそのとおりだと思いました。
すごく印象に残ってます。
そして今でもそのとおりだと
思っています。

今、改めて調べてみると、
夏目漱石『行人』の一文に、
「死ぬか、気が違うか、
それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの三つのものしかない。」
と書かれていることが分かりました。

あくまで「生に真剣に向き合ったら」
ということで、
私は、これまで怖くて、まだ一度も
生きることに、真剣に向き合えていません。

真剣に考えたら、
自殺するしかなくなるか、
発狂するに至るか、
生きるために宗教に走るか・・・
そのとおりだと思いつつ、
目をそらして暮らしています。

でももちろん作家である漱石は違います。
生を、作品を通して突き詰めていきます。

漱石は、自殺はできず、
狂気にもなりきれず。
晩年は禅宗に傾倒していったようです。

「則天去私(そくてんきょし)」は、
漱石が最晩年理想とした心境。
我執を捨て去り、
諦観にも似た調和的な世界に身をまかせる
こと、と解釈されています。

私はこれを、
道教の「無為自然」に通じるものだと
思っています。
「天に任せる」
やはり良寛にも近いものを感じました。