夏目漱石の向かった先 ~死か、狂気か、宗教か

だいぶ昔、高校の現代国語の授業で
夏目漱石の作品を扱ったとき、
先生が言いました。
「生きることを真剣に考えると、
行きつく先は、死か、狂気か、宗教か、
しかない。」

そのとき、それを聞いて、
本当にそのとおりだと思いました。
すごく印象に残ってます。
そして今でもそのとおりだと
思っています。

今、改めて調べてみると、
夏目漱石『行人』の一文に、
「死ぬか、気が違うか、
それでなければ宗教に入るか。
僕の前途にはこの三つのものしかない。」
と書かれていることが分かりました。

あくまで「生に真剣に向き合ったら」
ということで、
私は、これまで怖くて、まだ一度も
生きることに、真剣に向き合えていません。

真剣に考えたら、
自殺するしかなくなるか、
発狂するに至るか、
生きるために宗教に走るか・・・
そのとおりだと思いつつ、
目をそらして暮らしています。

でももちろん作家である漱石は違います。
生を、作品を通して突き詰めていきます。

漱石は、自殺はできず、
狂気にもなりきれず。
晩年は禅宗に傾倒していったようです。

「則天去私(そくてんきょし)」は、
漱石が最晩年理想とした心境。
我執を捨て去り、
諦観にも似た調和的な世界に身をまかせる
こと、と解釈されています。

私はこれを、
道教の「無為自然」に通じるものだと
思っています。
「天に任せる」
やはり良寛にも近いものを感じました。

鴨長明 ~閑居のすすめ

鴨長明「方丈記」の一節。

ほど狭しといへども、
夜臥す床あり、昼ゐる座あり。
一身を宿すに不足なし。
(中略)
ただ静かなるを望みとし、
憂へなきを楽しみとす。

<訳>
 手狭ではあるが、
 夜寝る場所があり、
 昼座っているところもある。
 わが身一つ暮らすのに、不足はない。
 (中略)
 ただ静かな暮らしを望みとし、
 心配のないことを楽しみとしているのだ。

夜寝るところがあって、
昼間は座っていられる場所がある。
あと、おいしいご飯が食べられれば、
それだけで生きていけます。

鴨長明は平安時代末期から鎌倉時代
にかけての歌人であり、随筆家。
禰宜に就く争いに敗れ、出家し遁世。
今でいうミニマリストであり、
その元祖的な存在。

鴨長明は、出世争いに敗れて
方丈の草庵での隠遁生活を始めました。
いわば、あきらめの境地。
でもその生活を、
エッセイに書き留めてくれました。
そのシンプルな住まいの考え方は、
多くの人々を惹きつけ続けています。

方丈記の草庵は究極のミニマリスト住居

鴨長明「方丈記」にでてくる草庵は、
究極のミニマリスト住居。
50歳で出家した長明は、60歳の頃、
京都郊外の日野山で草庵暮らしを始めます。

草庵は、持ち運び可能な
折り畳み式コンパクトハウス。
「方丈」とは「四畳半」。
そこで書かれたエッセイが「方丈記」。

長明の住んだ草庵とは・・・
広さは四畳半(3m 四方)で、
高さは七尺(2m)。
土台を組み、屋根は仮葺きにして、
木材はかすがいで留めてあります。
東に出した庇(ひさし)の下で薪をたき、
南に竹のすのこの縁側、
西に仏花を供える棚をつくり、
北の隅には障子を隔てて仏画を飾り、
その前に経典を置きました。
寝床は東側に敷かれています。
机に向かうときは、
脇息(きょうそく)に肘をかけて
円座に座り、
つり棚には、和歌の本や往生要集の
写本を入れた箱を置き、
その横には、琴と琵琶が
立てかけてありました。

これで十分豊かな生活を
送ることができたのです。

山菜や木の実で飢えをしのぎ、
持ちこんだ琵琶や琴で
孤独をなぐさめる静かな日々。
自身の不遇や、
人の世の悲惨さを見てきた長明は、
ここに至ってようやく
心の安らぎを得ました。
心が安らかなのが最も大切。
長明はこの草庵暮らしを愛しました。

小さな暮らしこそ、心休まる暮らし。

鴨長明の生涯の望は折々の美景

鴨長明「方丈記」の一節。

命は天運にまかせて、
惜しまず、いとはず。
身をば浮雲になずらへて、
頼まず、まだしとせず。
一期のたのしみは、
うたたねの枕の上に極まり、
生涯の望は、折々の美景に残れり。

<現代語訳>
 自分の命は天に任せているから、
 命が尽きるのを惜しんだり、
 死を忌み嫌ったりすることもない。
 自分自身をはかない浮雲のように
 考えているから、
 あてにもしないし、
 不足とも考えない。
 一生の楽しみは、
 うたたねをしている気軽さに尽きるし、
 生涯の望みは、
 四季折々の美しい景色を
 見ることに残っているだけだ。

鴨長明の隠遁生活にあたっての心がまえ
いいですね。

すべてを天に任せて
この世界を見るため、聞くために生きる。

うたたねができる気軽さ以外何もないが、
やらなければならない嫌なこともない。
生きている間は、
美しい自然をたくさん見たい。

ホントそれで十分ですよね。
私も見習わなければ。
でもつい欲が出て、
もっともっと望んでしまいます。
特に今みたいなITの時代は
目移りしてしまうほど
いろんな情報や物が溢れているので。

たまには原点に立ち返って、
自分を見失わないようにしたいです。

森で暮らしたソローの言葉

森で暮らした
ヘンリー・ディヴィッド・ソローの言葉。

「生きていくのに必要な食料は、
信じられないほどわずかな労働で
手に入れることができる。
それに人間は、動物と同じくらい
単純な食生活を続けても、
健康と体力は維持できるものなのだ。」

「僕は、お茶もコーヒーもバターも
ミルクも新鮮な肉も口にしないので、
こういうものを買うために
働く必要がない。
それで、あまり働かないので、
たくさん食べる必要がなく、
食費もほんの少しだけ。
しかし、あなたはお茶やコーヒーや
バター、ミルク、牛肉を食すので、
そのためにせっせと
働かなければならない。
体力の消耗を補うために、
たくさん食べなければならなくなる。
だったら、結局は
働いても働かなくても
同じことではないか。」

食べなければ働く必要もない。

贅沢がしたいから、
私たちは自ら働くことを選択している。

働くのは、
食べていくための必要最小限でいい。

そう言ってくれている人がいて、
私はとってもホッとします。

そうです。
贅沢がしたい訳ではありません。
食べていくだけの
お金があればそれで十分。
何のために働いているのか。
欲をかいてはいけません。