束縛されずに自由に生きるために「荘子」

「荘子」とは、
紀元前4~3世紀頃の中国の
実在の道家の思想家 荘周のこと、
あるいはその著作のことをいいます。

荘周は、広い学識の故に
仕官を求められたにもかかわらず、
束縛を嫌い、自由の境涯を求め、
仕えることはなかったといいます。
名利を超え、孤貧に徹する生活を実践し、
その果てに、死の怖れから脱却し、
死は生存の苦からの解放と認識します。

著作は道家の説話や寓話を編集した書物で、
知の限界、胡蝶の夢(虚と実の世界の転換)
相対的な見聞の認識と絶対知のちがい
など、かなり豊富な内容が記されています。

「荘子」も「老子」も、
万物の根源を「道」としており、
「道」は無為自然。

「道」を実践すれば、
人間社会の束縛から解放された
絶対的な精神の自由や、
自然と一体になった魂の安らぎが得られる。

もちろん、「道」を実践するためには
覚悟が必要。

束縛されずに自由に生きるということは、
孤独や貧しさを友として
暮らしていくということ。
そうして、そんな暮らしを、
自分自身で選んで、
味わって楽しんで満足して暮らしていく。
それが隠遁生活の本質でしょうか。

物我一体「知魚楽」~山水に暮らす意味

「荘子」が、川の橋付近で、
「恵子(けいし)」とともに遊んでいたが、
流れの中を自由に流いでいる魚の姿をみて、
「これこそ魚が自由に楽しんでいる姿だ」
といった。
恵子はそれを聞いて、
「あなたは魚でもないのに、
なんで魚が楽しんでいることがわかるのか」
と皮肉った。
それに答えて荘子は、
「あなたは私でもないのに、
私が魚の楽しさがわからないと
なんでわかりますか。」
と切り返したといいます。

魚の姿をみて、
荘子は「物我一体」の心境となっています。
それこそが荘子にとっての真実。

私が思うに、
魚が本当に楽しんでいるかなんてことは
どうでもいいのです。
魚の姿をみて、自分がどう思うか。
それが重要。

詩人たちも、美しい山水に
しばし俗世間のことを忘れて、
物我一体の境地となって
自分の世界に没頭します。
そして素晴らしい歌を生み出すのです。
その姿こそが真実。
山水自体には、
もともと何も意味はないのですから。
価値をつけるのは自分。

つまり、美しい山水に接していると
俗塵から遠ざかり、
自然に虚静無欲の心境になってくる。

それこそが老荘の目指す境地。
山水に暮らすことにもつながっていきます。

荘子「胡蝶の夢」は物我一体の境地

「昔、荘子は夢に胡蝶となり、
花上で自由に楽しく飛び回っていた。
が、目覚めると紛れもなく
またもとの荘子である。
しかし、荘子が夢に胡蝶となったのか、
胡蝶が夢に荘子となったのか・・・」

「胡蝶の夢」は、
荘子「斉物論」に基づく故事で、
無為自然の自由な境地を表しています。
自分と物との区別のつかない
物我一体の境地。

「斉物論」とは、
是と非、生と死、善と悪、虚と実等の
現実に相対しているかに見えるものは
絶対的なものではない、
万物は全て等しい、という考え方。
荘子は、これらの相対は
人間の「知」が生み出した結果であり、
ただの見せかけに過ぎないといいます。

夢と現実(胡蝶と荘子)との区別は
絶対的なものではない・・・

夢が本物でないって確信できますか?
今が本物って確信できますか?
今に囚われてはいけません。
今の現実が夢なのかもしれません。
夢も今も真実。

老子「そこに居すわらない」

さまざまな事物があらわれても
それについてとかくの説明をせず、
ものを生み出しても
それを自分のものとはせず、
ものを働かせても
それを頼りとはせず、
成果があがっても
そこには居すわらない。
そもそもそこに居すわらないからこそ
またそこから離れることもないのである。

昔読んだ本から書き写したメモ。
「老子」から。

なにものにもとらわれないということは
自分が強くなければできません。
言い訳したり、
物事に執着したり、
結果を気にしたり、
そんなことではいけません。
自分は強いんだということさえ
意識していてはダメです。

なにものにもとわられずに
自己の道をすすむ。

凛として自然体でいながら
それができたら 凄いですね。

老子「大道廃れて仁義あり」

老子の「大道廃有仁義」

大道(たいどう)廃れて、仁義有り。
智慧(ちえ)出でて、大偽有り。
六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。
国家昏乱して、忠臣有り。

<訳>
大いなる道(無為自然)が廃れたので、
仁義(人為的な道徳)の概念が生まれた。
知恵を持った者(儒者)が現れたので、
人的な秩序や制度が生まれた。
親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、
孝行者が目立つようになる。
国家が乱れてくると、
忠臣の存在が目立つようになる。

仁義や慈愛、忠義や孝行といったものは、
わざわざ他人から押し付けられなくても
自分の中から
自然に湧き上がってくるはず。
わざわざ強調しなければいけないのは、
本来、人の心に備わっているはずの
「道」がなくなってしまった証拠。
この生き方が廃れてしまったからこそ
人為的な仁義や慈愛、忠義や孝行が
説かれるようになってしまった。

老子の思想は「無為自然」。
あるがままにまかせることが理想。

老子は道が失われつつある世の中を
嘆いていたにちがいありません。

制度ができ、秩序が作られ、
道徳が説かれ、
人の世は堅苦しく、
窮屈になってしまいました。

法律・規則・道徳を意識しなくても
穏やかに暮らしていけたら、
それこそ理想ですね。

でも悲しいかな、
それがないと、
民衆はどこに向かってよいのか
分からなくなってしまうもの。

集団のなかで生きていく限り、
無為自然を実践するのは難しい。
だからこそ、
街を離れ、山の中にこもる。
道を実践する隠遁者が
山水に遊ぶ理由でもあります。