寂しい時には空を見よう

「寂しい時は
流れる雲を見ていよう」

以前、秋の神保町古本市で目にした言葉。
いいなぁと思ってメモしました。

青く澄んだ秋空に、
流れる雲を見上げて、
ボーっと見ている。

なんかいいですよね。

寂しいときは
寂しさをしっかり感じる。
しっかり実感する。
それもステキなことだなぁと
思ってしまいました。
心に余裕がないとできませんが。

流れる雲を見て、今を生きる。
意識を今にもってくる。
今を実感する。

そんな気持ちでいたいものだと
空を眺めている自分を想像します。

石英の音

「カチリ
 石英の音
 秋」

石英のカチリという澄んだ音に
圧倒的な秋を感じます。

3行で秋をみごとに表したこの詩。
この詩は、以前、
新潮文庫の百選を紹介した冊子に
掲載されていたもので、
とても印象に残るいい詩だと思って、
ずっと記憶のなかにありました。
毎年、秋の高い青い空を見ながら
この詩を思い出します。

そして調べてみたら、
文豪の井上靖さんが中学生のとき
友人から見せられた詩だとか。

「中学三年の時、
 友人からこういう自作の詩を
 見せられたことがある。
 それから六十余年、
 私はついにこの詩から
 自由になれないでいる。
 秋になると、どこからか
 石英の触れ合う音が聞えてくる。
 その友はとうに他界したが、
 秋になると、
 両手に石英の欠片を持って、
 どこからか現われてくる。」

井上さんに生涯、
この3行の詩が影響を与えたと思うと、
詩って、言葉って、
すごい力があるって思いませんか。

秋の澄んだ空気。
遠くの山まで見通せる青い空。

ちょうど今。
山は紅葉のまっさかり。

ひねもすのたりのたりかな

「春の海
終日(ひねもす)のたり
のたりかな」

作者は与謝蕪村。
この句は、丹後の海を詠んだものと
言われています。

「ひねもす」は「一日中」。
「のたり」は「ゆったりしている」。

うららかな春の海で、
一日中 波がゆったりと寄せては返し
寄せては返ししている。

穏やかな春の海を目の前に
つい うとうとと
眠ってしまいそうな心地よさが
うまく表現されています。

まどろみたくなるような
穏やかな時間の流れる海の情景が
目に浮かびます。

俳句から画が浮かぶ叙景性が
蕪村の句の特徴。
とても写実的です。
蕪村は生涯の大半を旅に明け暮れ、
漂泊を創作の糧としていたそうです。
生き方もいいですね。

しづ心なく花の散るらむ

「ひさかたの ひかりのどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ」
これもご存知、
古今和歌集で紀友則が詠んだ歌。
紀友則は、土佐日記で有名な
紀貫之のいとこだそうです。

<訳>
こんなにも日の光が
のどかに射している春の日に、
なぜ桜の花だけは 落ち着かなげに
散っていってしまうのだろうか

見えるのは、
柔らかな春の日差しの中を、
桜の花びらが散っていく様子。
情景が目に浮かぶ、
とても視覚的で華やかな歌。
散り行く桜への哀愁も感じられます。

桜は、満開もすばらしいですが、
その花吹雪も、すぎゆく季節や
はかなさを感じさせる
とても美しい春の光景です。

「やっと暖かくなってきた
のどかな春の日なのに
桜の花だけはあわただしく
散っていってしまう。
なんでだろうか・・・」

古今和歌集の時代から
日本人が大切に共有してきた
この気持ち。
そんな気持ちを 何百年も昔の人と
共有できてよかった。

願わくば花の下にて春死なん

「願わくば 花の下にて 春死なん
そのきさらぎの 望月のころ」
西行法師の有名な歌。
(山家集・続古今和歌集)

<訳>
願いが叶うならば
桜の花咲く下で 春死にたい
お釈迦様の入滅した旧暦2月15日頃の
満月の夜に

きさらぎは旧暦の2月。
旧暦2月15日はお釈迦様の入滅した日。
今でいうと、この季節は
3月下旬から4月上旬頃でしょうか。
望月(もちづき)は満月のこと。
花と月がそろった美しい季節の中で
入滅されたお釈迦様へのあこがれ。

実際、西行は1190年2月16日に
本当に満月のもとで死んだそうです。
念ずれば叶う・・・でしょうか。

満月の夜に咲き誇る満開の山桜。
美しい、静かな情景が目に浮かびます。
こんな至上の幸福の中で死ねたら
なんて幸せなことか・・・
気持ちはとっても分かります。
日本人でよかった。