昔読んだ 新修中国詩人選集I(岩波書店)
「陶淵明 寒山」の中から書き出した
以下のような メモが残っていました。
人々は草に花さきはじめると
気候が温和になって来たことをさとり、
木が枯れだすと
風が冷たくなってきたのだなと
気がつくのだった。
暦の記録などはなかったけれども
四季は自然に一年を完成する。
こころたのしくたっぷりとした
よろこびを味わい、
どんなことにも小ざかしい智恵などは
はたらかすことはいらない。
かれらは互いにはげましあって
農耕にはげみ、
日が沈めば何の気がねもなしに
休息をとるのだった。
桑や竹がたっぷりとした木陰をつくり、
豆や粟を季節季節に応じてうめる。
春蚕からはゆたかな糸がとれ、
秋のみのりにも
お上から税金を
とりたてられることはない。
草の生い茂った道が
はるかにかすんでゆきかい、
鶏や犬がのどかになきかわす。
台やたかつきのお供えものは
今も昔のしきたりに従い、
衣裳も新しい型のものはつくらない。
子供たちは気のむくままに
歩きながら歌をうたい、
ごましお頭の老人たちも
たのしげに好きな家を訪ねて歩く。
なんだか世界一幸せな国
ブータンのことを思い出しました。
経済的な豊かさではなく、
精神的な豊かさを重んじるブータン。
まず家族を大切にして、
食べられて、寝るところがあって、
着るものがある。
それだけで満ち足りていて
幸福だと思える。
上述した2つの世界は
本当にすばらしい世界です。
それこそが理想郷です。
本当の幸せってそういうものに
違いありません。
でも、現実の世界には
いろいろな人がいます。
もともと人間が大好きで、
人の輪のなかにいるのが苦にならない人。
一方で、私のように集団行動が苦手で
人といれば気を遣って疲れてしまうため、
ひとりでいることを好む人。
ブータンにも
協調性のない人は必ずいるはず。
そういう人はどうしているのでしょう。
もしかしたら、そんな人も
暖かく吸収してしまうくらい
思想や環境の大きな土台があるのかも
しれませんが。
それに、ふと、こうも思うのです。
個々の向上心、冒険心は
どこに向けたらいいのか・・・
邪魔にならないのか・・・
平和な世界には英雄はでてきません。
そもそも必要とされていないから。
変革が求められる時代には、
その時代時代に合った英雄がでてくる。
平和な時代には個が埋没する、
といってもいいかもしれません。
いろいろな人がいて、
そのすべての人が
幸せに感じることができる世界が
あればいいのに。
生きるのって難しい。