ルーティンが私を救う

何かものすごい
ショックなことがあったとき、
立ち直れないような
不幸に遭ってしまったとき、
そんなときは、
何も考えることができません。

まずは無理に立ち直ろうとせず
十分に落ち込んで、
少し時間が経って落ち着いてきたら、
以前と同じ生活にだんだん戻していく。
何も考えず、
淡々と目先の生活をこなしていく。
そんなルーティンをこなすことによって
時間が経過するのを待つ。
そして 気がつくと、
いつのまにか時間が
傷ついた心を癒してくれている。

そういうことってありませんか。
それはきっと、
立ち直るためのひとつの方法。

生きてるのがしんどい。
がんばらなきゃいけないと思うだけで、
息が詰まったり
絶望してしまうようなとき。
そんなときも、
毎日のルーティンを繰り返すだけでいい。
そんなときは、
毎日の生活を続けていくことが、
がんばって生きてるっていうこと。

ルーティンていうと、
スポーツ選手がおまじないのように
毎回必ずやる ゲン担ぎが有名ですよね。

でも実は、誰にでも
日常のきまりや順序はあって、
それとは気づかずに
毎日それを繰り返しています。

それが生活の「ルーティン」。
それが普通にできていれば、
心が安定に保たれるものです。

「ルーティンの中に心の安定がある」

ルーティンの中の小さな楽しみに
気づけたら、それはもう復活の兆し。
いつものルーティンは
きっとあなたを救ってくれます。

なんとなく幸せ

なんだか最近
なんとなく幸せな感じがします。
なんとかなる・・
きっとこの先もどうにかなる・・

なんの根拠もありませんが。

なぜか不思議。
ボーっとしているときに、
ふっと頭をよぎるのは、
なんとなく幸せなこの感じ。

いったい私はいつから
こんな楽天的になれたのか。
どちらかというと
後ろ向きで悲観的な性格なのに。

で、そうなれた原因を
思い起こしてみたんですが、
あるとしたら、これしかないかなと。

それは、言霊(ことだま)。
つまりは、
ポジティブ言葉による自己暗示。

始めてからもう10年以上になります。
毎日いろんなことに対して、
「ありがとう。ありがとう。大好き。」
を声に出して繰り返し言っています。
もちろん今でも。
誰にも聞かれないように。
ひとり言のように。

なんで生まれてきたんだろ・・
なんにもいいことがない・・
そんな悲観的な私が、
いつのまにか
ふんわりとした楽天的に。

なんとなく幸せ、
と感じることの他にも、
実感していることがあります。

嫌なことや不幸なことがあっても、
その中から何かしらいいことを見つけて、
結局、よかったこととして
捉えられるようになりました。
探しているわけではないのに
自然にそう考えられる。

ホント不思議です。
たぶん人間の心理はそんなもの。
繰り返して唱える言葉が
結局自分自身への暗示になって
いつのまにか少しずつ変わっていく。
そしていつか
自分が変わったことを強く実感する。

人って変われるんですね。
人間の気持ちってホント不思議です。

PS:もちろん今でも暗くなることは
あります。もともとは後ろ向きの
性格ですから根本は治らない(笑)。

鴨長明 ~閑居のすすめ

鴨長明「方丈記」の一節。

ほど狭しといへども、
夜臥す床あり、昼ゐる座あり。
一身を宿すに不足なし。
(中略)
ただ静かなるを望みとし、
憂へなきを楽しみとす。

<訳>
 手狭ではあるが、
 夜寝る場所があり、
 昼座っているところもある。
 わが身一つ暮らすのに、不足はない。
 (中略)
 ただ静かな暮らしを望みとし、
 心配のないことを楽しみとしているのだ。

夜寝るところがあって、
昼間は座っていられる場所がある。
あと、おいしいご飯が食べられれば、
それだけで生きていけます。

鴨長明は平安時代末期から鎌倉時代
にかけての歌人であり、随筆家。
禰宜に就く争いに敗れ、出家し遁世。
今でいうミニマリストであり、
その元祖的な存在。

鴨長明は、出世争いに敗れて
方丈の草庵での隠遁生活を始めました。
いわば、あきらめの境地。
でもその生活を、
エッセイに書き留めてくれました。
そのシンプルな住まいの考え方は、
多くの人々を惹きつけ続けています。

方丈記の草庵は究極のミニマリスト住居

鴨長明「方丈記」にでてくる草庵は、
究極のミニマリスト住居。
50歳で出家した長明は、60歳の頃、
京都郊外の日野山で草庵暮らしを始めます。

草庵は、持ち運び可能な
折り畳み式コンパクトハウス。
「方丈」とは「四畳半」。
そこで書かれたエッセイが「方丈記」。

長明の住んだ草庵とは・・・
広さは四畳半(3m 四方)で、
高さは七尺(2m)。
土台を組み、屋根は仮葺きにして、
木材はかすがいで留めてあります。
東に出した庇(ひさし)の下で薪をたき、
南に竹のすのこの縁側、
西に仏花を供える棚をつくり、
北の隅には障子を隔てて仏画を飾り、
その前に経典を置きました。
寝床は東側に敷かれています。
机に向かうときは、
脇息(きょうそく)に肘をかけて
円座に座り、
つり棚には、和歌の本や往生要集の
写本を入れた箱を置き、
その横には、琴と琵琶が
立てかけてありました。

これで十分豊かな生活を
送ることができたのです。

山菜や木の実で飢えをしのぎ、
持ちこんだ琵琶や琴で
孤独をなぐさめる静かな日々。
自身の不遇や、
人の世の悲惨さを見てきた長明は、
ここに至ってようやく
心の安らぎを得ました。
心が安らかなのが最も大切。
長明はこの草庵暮らしを愛しました。

小さな暮らしこそ、心休まる暮らし。

鴨長明の生涯の望は折々の美景

鴨長明「方丈記」の一節。

命は天運にまかせて、
惜しまず、いとはず。
身をば浮雲になずらへて、
頼まず、まだしとせず。
一期のたのしみは、
うたたねの枕の上に極まり、
生涯の望は、折々の美景に残れり。

<現代語訳>
 自分の命は天に任せているから、
 命が尽きるのを惜しんだり、
 死を忌み嫌ったりすることもない。
 自分自身をはかない浮雲のように
 考えているから、
 あてにもしないし、
 不足とも考えない。
 一生の楽しみは、
 うたたねをしている気軽さに尽きるし、
 生涯の望みは、
 四季折々の美しい景色を
 見ることに残っているだけだ。

鴨長明の隠遁生活にあたっての心がまえ
いいですね。

すべてを天に任せて
この世界を見るため、聞くために生きる。

うたたねができる気軽さ以外何もないが、
やらなければならない嫌なこともない。
生きている間は、
美しい自然をたくさん見たい。

ホントそれで十分ですよね。
私も見習わなければ。
でもつい欲が出て、
もっともっと望んでしまいます。
特に今みたいなITの時代は
目移りしてしまうほど
いろんな情報や物が溢れているので。

たまには原点に立ち返って、
自分を見失わないようにしたいです。